僕は不定期で一次・二次創作の小説をそれぞれカクヨム・ハーメルンに投げている。作者として創作活動に勤しむことと、読者・視聴者として規模に関わらず創作作品を鑑賞することの両方を通して、作品を見つめるとき、どこまで細かいところまで目を凝らして見られるかを意識することが多分にしてあることに気がついた。
しかし見つめて心に引っかかった何かが、果たして作品の趣向なのか粗なのか、判断しかねるときもある。ほとんどの場合粗ではなく作者が意図的に仕組んだ趣向なのだろうが、わからないときはどちらかに決めつけず、放置するに限る。このとき感じるのは、「作者と読者の間に知識の守備範囲のずれがあると確実に評価にもずれが生じるな」ということだ。これは至極当然の話とは思うが、作者、読者どちらの立場にしてもこの「知識の守備範囲のずれ」について、僕は悩む。
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読者の立場
読者の「客層」はあまりにも広い
あまりにも広いのだ。ということは知識の守備範囲もばらばらになる。映画なんかを観ていると、カットの雰囲気にそぐわないようなわざとらしい言動を登場人物がとることがある。そんなとき十中八九は他作品のオマージュによるものだ。オマージュが他作品のニュアンスを本作品に輸入し、新たな意味を作り出す。自作品を例に挙げてみよう。あまりに自然で、わざとらしくはないが、こういった感じでニュアンスを輸入する。タイトルが物騒だが当方は生粋のリョナラーなのでいちいち驚かないでほしい。
「……わ、わからないのよ。私は、ああすればあなたが、”しあわせ”になれるだろうって、信じて疑わなかった。サーカスに生まれた虎みたいに……外を知らないで、あいつにいいようにされてるのを見過ごせるわけないでしょう」
(フランちゃんを虐待するのです 4話「誰そ、聖なる真実は」より、レミリア・スカーレット)
おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、おれはしあわせになれるだろう。
(中島敦 山月記より、李徴)
「しあわせ」この言葉のニュアンスを輸入した。山月記のオマージュであることを宣言するために「虎」「しあわせになれるだろう」との言葉を使ったが、実際に気づいた人はほぼいないだろう……
どんなニュアンスかというと、「しがらみを知らないというしあわせ」だ。それを引用元である山月記にならい、ひらがなの「しあわせ」で表現している。それを踏まえてここでは、しあわせを享受していた妹を姉が独断で救い出すが、それすらも無知によるしあわせを利用したものである、ということを暗示するため(話者が姉で、姉自身はそれを自覚していない)に「ああすればあなたが、”しあわせ”になれるだろうって」と、しあわせを引用した。
で、伝わらないのだ。読者が高校時代に読んだであろう山月記のフレーズを覚えているだろうか?あるいは、山月記を一度でも読んだことがあるだろうか?そして読み、覚えていたとして、オマージュに気がつくだろうか?先に述べたとおり、気がつくまでに至った人はほぼいないだろう。物語の中心に立つ渾身のオマージュは、自己満足に終わったのであった……
話は作品のレビューに移る。映画や小説のレビューを、Amazonなんかで一度は目にしたことがあるだろう。そしてそこに跋扈する、☆1評価と感情的な批判(?)の数々といったら……
あのレビューたちを読んでみて思ったのが、オマージュに限らず、作者の趣向が何一つとして彼らに伝わっていないな、ということだった。シン・エヴァンゲリオン(しませんよ、ネタバレは決して。)のレビューから抜粋する。
「なぜこんな無茶苦茶な内容になったのか全く理解できない」
「冒頭からずっと我慢して観たけどメンタル不調者の脳内を見るとこうなってるんだなということだけは分かる映画 最後には「は?」という感想が残った」
こんな感じだ。(旧劇観てないんだろうなというのは置いといて)庵野秀明総監督の「知識の守備範囲」を全くカバーできていないと、「全く理解できない」とまでは行かずとも、演出に違和感を覚えることはあるだろうし、「は?」という感想は残るだろう(彼らの異様な感性については記事の趣旨から外れるので触れないでおく)。体感ではほとんどの低評価レビューが、知識の守備範囲のミスマッチに起因するものだった。Amazonはそのあまりに広い客層から、批判にもならないレビューが多く書かれやすいというのも、この件の原因としてあるとは思う。
そんなレビューは作者も読者(視聴者)も無視すればいいのだが、言いたいのはレビューについてではない。レビューはただの例だ。
自分が作品を鑑賞するとき、作者の趣向をすべて汲み取ることは不可能に近い。ステルスアクションゲームのメタルギアソリッド:ファントムペインでは、冒頭で、ヘリコプターが炎で形作られた巨大な鯨に飲み込まれるというシーンがある。他にも復讐、エイハブ、イシュメール、ピークォドなど小説「白鯨」からの引用が数多く見られる。僕は白鯨を読んだことがないどころか名前すら知らなかったので、先述のレビュワーよろしく「すごい展開だなあ」と呑気に眺めていた。白鯨という小説の存在はこのゲームのノベル版を読んでようやく知った。
作品に限らず、物や事柄を見るときにどこまで詳しく観察できるかどうかを、「解像度」と呼んでいる。この解像度が荒いと物事自体が荒削りに見えてしまう。
大好きなゲームでさえ、教養の不足ゆえに楽しみきれないことがある。これは仕方のないことだが悔しさが残る。
作者の立場
作るときの「解像度」
逆もある。作者が乏しい知識からひり出した稚拙な小説を読んで、読者からツッコミを受けるパターン。もちろんそんなことのないように、というか作品を完璧な状態で世に出すために、ファクトチェックや時代考証など綿密に行うのが普通だ。ここは答えが出ているから、大きな悩みにはならない。
登場人物の「解像度」
一人称で話をすすめるとき大きな問題になるのが、主人公が世界を知覚するときの解像度だ。三人称なら情景をありのままに描写できるが、一人称となると主人公が知覚した情報しか書けない。
目の前にMRIが置かれているとして、主人公がMRIを知らなければ「直方体にドーナツがついたような、白い何か」と書く。その場に検査技師でもいれば「これはMRIといって、人体の中身を詳しく見ることのできる機械だよ」と説明させることができるが、そこが密室で、主人公がひとり閉じ込められているとしたら?小説なのだから大いにありえるシチュエーションだ。MRIを知らないまま、読者も「直方体にドーナツがついたような、白い何か」とだけ知らされた状態で始まるソリッド・シチュエーション・スリラーなど、もはやスリラーではない。無知ということは小説全編にわたってそんな調子で、テンポが悪くなるだけだから、主人公はMRIに限らず様々な物事を知っているものとして話を進めることになるだろう。
こんなことが起こるから、無知や頭の悪い主人公というのはそう登場するものではない。世界の解像度が低い状態は解像度の低い情報しか提供し得ないし、そんな設定はほとんどの場合蛇足でしかない。こうして創作世界の人々の知能は上がっていく。
どうにもならないこともある
数年間書き続け、最近ようやく終わりが見えてきた一次創作に「戴血の娘よ、狂夢の主たれ」がある。冒頭で何もかもいい加減な町医者が登場する。三人称で書いていないので、このいい加減さが当たり前になっている世界観の中では、本文含め誰もその医者の違和感を逐一指摘できないでいる。このシーンを読んだTwiitter上の相互フォローの人がご丁寧にも「24歳で医者はない」とご教授なすったのだが、そんなことこっちもわかっているのだ。これは知識によって解像度が落ちているのではなく、「年下の拙作(僕の謙遜でなく彼の希望的観測)に難癖をつけたい」という感情が先行して、作品を見る目が歪んでしまったものと推測される。
余談だが、絶賛文明衰退中という世界観の作品では「医者の真似事で街を支えようと奮闘するヤブ医者」はほぼお決まりで登場するキャラクターとなっている。
作品への忠実さと読みやすさ、どちらをとるか
作品の世界観に忠実に、現実世界での非常識をその世界の常識として流してしまえば、読む際にわかりにくくなる。読みやすさを重視して、登場人物に「現実世界では非常識である」と認識させてしまえば、世界観にほころびが生じる。後者は字面だけ見ると不可能にも思えるが、現実世界の延長線上(例えば近未来)にその人物がいれば可能だ。
自分は、この件はジレンマにならなかった。もともと僕の小説はみなリョナシーンの表現にばかり目が行きがちで、ヒューマンドラマ的な側面を無視されることが多くあるので、今更どこかわかりにくくなっても、木を隠すなら森にというように、どうせわからない。残念ながらアリが一匹増えたところで、踏み潰す労力はそう変わらないのだ。どうか踏まないでほしい……
だから、「戴血の娘よ、狂夢の主たれ」の続編「一劫にて愛を誓え」では、リョナシーンをほぼ撤廃して、メインである物語を押し出すことにした。広汎性発達障害の脳内をとくと見よ。※
例によって疲れたので筆を置く。
※広汎性発達障害はDMS-5にて自閉症スペクトラムに統合されました。人に何かを伝えるのが絶望的に下手です。とくと見よとは、つまりそういうことです。