今年の冬、生まれて初めて鬱状態に陥った。前回のブログでのジプレキサのくだり。絶食が解禁されてからも1ヵ月以上ほとんど何も口にできておらず、食事ができれば元気になれるが、食事をするための元気が足りない… という状態が、小児科病棟といういつもと違う住環境、年齢を理由にすべてを許されるちびっ子暴君、絶え間ない脚の激痛など複数の高ストレス要因に既に囲まれている僕をさらに厚く囲った。
食べ物が入っていないので体からは出るものも出ず、さらに尿瓶があるのでトイレにも行く必要がない。気づけば数日間、飲まず食わずはもちろん、ベッドの上に横たわったまま全く動かずにいた。鎮痛のための麻薬が多すぎて自分が寝ているのか起きているのかよくわからなくなっていて、なんとなく意識のある状態がたまらなく苦痛で、でも呻くことも文句を言うこともこの状況を打開しうる行動ではないことはわかっていたから、ただじっとしているしかなかった。
なんとなくわかった。これが鬱状態ってやつだ。どうにもならない環境が、心に「どうにもならないよ」と語りかけ、心までもが自力ではどうにもならなくなっていった。
正直この苦しみから逃れる手段として「元気になる」と「死ぬ」が同列に並んでいて、何もする必要がない分若干「死ぬ」が優勢だったが、生き物は”生き”物だから生きているべきだよなと思い、アスペ特有の頑固さを駆使して主治医に向精神薬の処方をしていただいた。障害は鬱に勝る。毒を以て毒を制す。
鬱状態はただの強い落ち込みではなかった
躁鬱病のイメージから、躁状態は感情の振幅が大きく、鬱状態は感情の振幅が全くないフラットな状態だと思っていた。しかし実際は、気分がどん底にまで落ち込んだ状態で振幅を失うので、そこから気分を上げることができなくなっているのだ。詰み。
さらに落ち込みの種類も鬱状態特有のもので、他では知りえないものだから、鬱状態を経験した人としていない人では話がかみ合わない。女性にキンタマの痛みを説明することに似ている。切った痛み、鈍痛、つねった痛み、頭痛、偏頭痛のように様々な種類の痛みが存在する中にキンタマの痛みがあり、同じく深夜に嫌なことばかり連想するときの落ち込み、対人で嫌なことをされた時の落ち込みなどある中に鬱状態の落ち込みというものがある。鬱状態を経験したことのない人は「鬱は甘え」などと信じ鬱状態の苦痛におびえることがないのである意味幸せかもしれない。住む環境は完全に分けたいが。無知って幸せなことが多いんだよな…
向精神薬を恐れる必要はない
必要なら手遅れになる前に迷わず使うべきだと思う。どの薬が必要かを判断するには慎重にならなければいけないが、それは医師の役目だ。患者は医師の判断と説明をよく聞いて、理解しよう。疑問があれば聞き返し、不可解ならセカンドオピニオンとしてその医師の判断と説明について他の医師に尋ねてみる。医師以外の誰か(しばしば身内)が、精神科、心療内科、向精神薬のネガキャンを熱心に(クソofクソなことに、あなたのためを思って!)行ってくることがあるが、素人と専門家、どちらが正しそうかは言わずともわかるだろう(これはすべてにおいて有効な考え方で、打率は.999)。
診療開始開口一番「どの薬が欲しいの?」と聞く医師がいるらしいと聞いた。これは踵を返してよい。
最後にどうでもいいこと:入院中だったからすぐに処方してもらえたが、心療内科の外来初診予約はなかなかとれないそうなので、野生の鬱病患者などは病院に行くまでが余計に大変だななどと…