10kgの減量に成功した。
再発した白血病の治療として2021/11/26に姉の骨髄を移植したときのこと。
移植自体は全血輸血と見た目も感覚も変わらないのだがその前に数日かけて行う移植前処置で心身をボッコボコにされる。それまでの治療で「非常に強い薬です」と言われて小瓶一本分だけをたまに使っていたエンドキサンというものを、今までの数倍以上の量でぶっ込まれたあと、全身に99%致死量の2倍の量である12Gyもの放射線を照射された。午前と午後で3Gyずつ、2日に分けて。1日目からもう何も口にできなくなった。
移植当日のことはほとんど何も覚えていない。寝て起きては吐いてを延々と繰り返していたうちのたった一日のことだ。この日から何も食べられないだけでなく、何も食べてはいけないということになった。
数日経つとこの世の終わりみたいな倦怠感が抜けてきて、目立った辛さは吐き気と下痢だけになる。このあたりからの日々はよく覚えている。2019年の三が日に抗癌剤由来の急性膵臓炎をやって19日間の絶食をすでに経験していたので、その時のようにひどい栄養不足でまた起き上がることもできなくなるのではないかと恐れていたが、そんなことはまったくなかった。確かに二台の点滴台を同時にころころ動かしながら少し病室を歩くと疲れてしばらく動きたくはなくなるが、トイレに行って戻ってくるだけで数時間も眠らなくてはならないような猛烈な虚脱感はない。膵臓炎では膵臓とその周りの組織が自己消化…… 平たく言えば溶けていて、それを修復するのに多大な体力を使っていたが今回はそれがないのだ。アマプラでジョジョの奇妙な冒険の4部と5部を一気観して楽しむだけの余裕があった。
白血病患者には中心静脈カテーテルというものが胴体のどこかに刺さっている。採血や大量の輸液、静脈注射を針を刺さずに行える便利な管で、太い静脈に繋がっている。僕のいた病棟では胸部だった。食事ができない分、そこから養分を流し込む。ミネラル、ブドウ糖、アミノ酸を生理食塩水に溶かしたものを点滴で入れるのだ。これを中心静脈栄養という。しかしこれだけでは基礎代謝分をそっくりそのまま補いきることはできないので、できるだけ早く食事を始める必要がある。ここに脂質が入っていないのは、点滴の中で脂質が分離してしまうためだ。脂質を点滴で入れるには別でもう一本点滴を挿す必要がある。この時点ですでに中心静脈カテーテルと手背(手の甲)の2本挿さっているのでやめた。このとき手背に挿していたものはこれから長い期間挿さりっぱなしだったので、今でも痕が残っている。
何日経っても吐き気は止まらない。吐き気は不快で、かつ吐いてしまえば少しの間その吐き気を感じずに済むので、軽率に吐いていく。その時の容器はガーグルベースというものに袋をかぶせたものだ。ただ何も食べておらず、水もほとんど飲まないので、吐いて出てくるものといえば十二指腸の胆汁くらいのものだ。これは黄緑色や黄色をしている。そして苦い。ウルソと同じ味がする(成分はウルソと同じなので)。これが出てくるまで吐くと胃が筋肉痛になる。空腹時にみぞおちを指で強く押した時のような痛みがある。
ジョジョを観ていたら絶食の最長記録を更新していた。その時にはもう移植片は生着していて、食事も重湯、粥、豆腐など軟らかいものなら許可されていたが、飲み込んだそばから全て吐いていたので、実質として何も食べていない。どれくらいの吐き気かというと、飲み込めず口に溜まった唾液で頬が膨らむくらい。唾液が胃に入るだけで吐く。
さて食事をしないということは、口内の細菌の食料もないということだ。歯垢のもとがないので、歯が全く汚れない。それでも主治医の指示で歯を磨いていたので、数日で歯が真っ白になった。
そしてだ。食事をしないということは、便通がない。うんちゃんの大部分は剥がれ落ちた腸の細胞だと聞いたことがある。その通りであれば食事をしていなくても多少出るものと思っていたが、一日に何度も、しつこいほど出てくるそれは、ほとんど水だった。
ブドウ糖はしっかり供給されていたので、思考力の低下は、少なくとも自覚できるほどはなかった。頭の回転が遅くなると時間の流れが異様に早くなったように感じられるのだが、それが一切なかった。どうしてそんなことを知るに至ったのかについてはまた別の機会に、いつか話すと思う。
体調が悪すぎるという日がなくなり安定してきたころ、父方の祖父が自分と同じ急性リンパ性白血病で入院していると知らされた。12月の半ばだったと思う。本当にたくさん思うところがあったが、その中で特に大きく、また有意義なものとして、この件と飼い猫2号の死によって学んだことがある。それは、未練を全く残さず誰かと別れるということは初めから想定しないで過ごしたほうがよい、ということだ。結局祖父とは一度も会うことなく、彼が春の終わりに亡くなった。確かに祖父は、僕が退院しているであろう4月までは生きると言っていた。
それから特に変わったことはなく、そのまま白血球の数も着実に増え、大晦日にクリーンルームから大部屋(個室と対比して、4人1部屋の病室をそう呼ぶ)に戻った。そして1月2日、奇しくも3年前に急性膵炎を食らったのと同じ日に、右の腎臓の下で血管が破裂する。これでできた血の塊で脚の神経が潰れ、右大腿四頭筋不随、そして激痛によりほぼ寝たきりとなった。
まだ何も食べられない。食事の時間になり他の患者のトレーが運ばれてくるとその匂いで吐く。他の患者も癌治療の真っ最中だったりするので、僕の嘔吐につられて吐く。これを同時多発ゲロと勝手に呼んでいた。
2月になってしまった。もう3ヵ月ほとんど何も食べておらず麻薬漬け。ここで鬱になった。あーこれが鬱かー、新しい感覚だなー、といやに冷静でいた。主治医がジプレキサを出してくださった。気分を持ち上げ、吐き気を抑え、食欲を出すという当時の自分にあまりにもぴったりな処方!驚くべき早さでこの全てが改善し1,2週間で普通に食事ができるようになった。
今回の絶食は期間こそ長かったものの栄養が一応足りていたので、絶食の部分に限って言えばそこまで悲壮感はなかった。悲壮感マシマシの絶食with膵炎はもうよく覚えていない。確かカレーのじゃがいもを飲み込んで発動した。
おわりに
えっと、僕の書くリョナは実体験が結構混ざっています。